田中城はその昔、今川家の居城として築かれ、後に武田信玄が駿河に攻め入って田中城を手中に収め、武田流の築城法で3ケ月堀6ヶ所を構築しました。その後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康等、戦国の武将がこの城をめぐって攻防を展開し、特に家康は8年かかって漸く城を落とし入れました。亀の型をした平城で駿府城の出城として堅固な要塞でした。
 徳川時代に入り城主が順次任命され、明治元年まで12氏21名の城主が在城しました。これらの中で当寺と最も関係深かったのは10代、11代と城主をつとめた太田摂津守資直、資晴父子であります。資直公は太田道灌の子孫で、浜松城主から田中城主となって5萬石を領しました。宝永2年(1705年)1月2日資直公逝去の折、当寺へ納牌、菩提寺とされました。資直の子、資晴は後、奥州棚倉へ転封され、その子孫が掛川城に移り、明治元年まで城主をつとめました。田中城最後の城主本多氏の頃には家老の大半が当寺の檀家でありましたので、いつの間にか「さむらい寺」と呼ばれるようになったものです。

 田中藩城主・藩士の墓

10代 太田資直公墓碑

明治の田中藩の状況                          小花藤平

  田中藩は明治元年9月房州長尾藩に国替を命ぜられて、139年の住みなれた田中の地を離れ、大半が長尾に移動した。
 明治4年(1871年)7月廃藩置県後の藩士たちの中には、「どうせ苦労するなら田中で」と当地へ帰って、各生業に就くようになった。又長尾に残った人々も学校の教員に、戸長役場の書記に、千葉に出て県庁の吏員や、超卒(巡査)に、或は開拓地に帰農する者もあった。
 一方その間の藤枝の田中城の状況、本多正訥藩主が房州長尾藩へ、お国替えになった後、暫らくの間、旗本の士、平岩金左衛門が田中城代として勤番して居たが、その後高橋伊勢守泥舟、前田五門が奉行として入り、其の配下に松岡萬、中条金之助景昭、大草高重等がいた。
 これらの人々の支配の下に徳川藩士約七百といわれた多数が、田中城の家中屋敷に移り住むことになったが、その家族等を合算すると相当の人数と考えられる。
 特に新宿口足軽屋敷方面に居住した者の中には、上野彰義隊に加わった気性の荒い旗本武士もあったりして、何かというと「ブッタ切ルゾ」と、直ぐに刀を抜きかけてくる仕末で、附近の百姓達は各家に木戸をつけ固く閉ざして、日没後は決して外へ出ない様にしたものだと云われている。
 明治4年(1871年)廃藩置県によって廃城となった、城址には、小学校(養正舎)が設けられ、後に官立小学校として教員の授業法の研究学校として、明治初期の初等教育振興の為に非常な貢献をした。
 居住していた徳川藩士は各方面に生活の道を求めて分散した。また、城址は民有地に払下げられた。家中屋敷は藩士達に与えられたので、保福島、平島、郡等の百姓達に譲られ、城濠も土手等もほとんど民有地になった。折柄海外貿易品として製茶が有望な時代となって茶畑となり、又は田圃となって開拓しつくされてしまった。勿論城の建物も余り堅牢なものではなかったと思われる。

安政元年(1854年)11月4日(辰の刻、今の午前8時頃)の大地震で作事場と射撃場だけが残ったのみで、他は全部大破、倒潰し藩士の住宅も大部分倒潰した。近隣の百姓の住家も殆ど倒潰してしまった程の大地震であった。その復旧工事に就ても、幕末期で各藩共財政窮乏の時であったので、応急的の建物であったと思う。(恩田仰岳伝から)
田中城地図
ホーム