■藤枝宿の奥州屋「大塚家」      

 旧藤枝宿の中程、白子町に奥州屋という大きな造り酒屋があった。屋号は奥州屋。家伝では江戸時代の中頃に大塚家は藤枝宿の南にある田中城の御用商人であった。藩主の太田資晴奥州棚倉(現福島県棚倉市)にお国替えになった時に一緒について行き、再び藤枝に戻ったときに奥州屋を称したというのである。

 藤枝宿は志太郡・益津郡の8ケ村の東海道に面した部分が宿場をつくり、西から川原町・上伝馬町・鍛冶町・吹屋町・長楽寺町・白子町・下伝馬町・左車町の8ケ町と上伝馬町から分岐した木町があった。この内、鍛冶町より東は天正14年(1582年)に家康の朱印状により町づくりが許可されたもので、特に白子町は駿河国外からの移住者には税が免除されていた。これは、本能寺の変に遭遇した徳川家康の危機を救った小川孫三の功績に報いたものである。そのため、現在でも旧白子町域には奥州屋や近江屋といった屋号の商店をみることができる。
「大塚荷渓と藤枝宿の文人たち 椿原靖弘 」より抜粋
大塚家先祖代々の墓 大塚荷渓の墓

■大塚家と司馬江漢          
 藤枝宿の大塚家が広く知られるようになったのは、司馬江漢の『江漢西遊日記』に大塚家滞在のことが記されたからである。司馬江漢は江戸の蘭学者で油絵を描き、日本で初めて銅版画をつくり、江戸時代の開明的な文人として知られている。江漢は天明8年(1788年) 4月、長崎に向けて江戸を発ち、東海道を西進して、府中で久能山を参詣し、また庵原(現在の清水市付近) までもどったりしながら、別に急ぐ様子もないまま藤枝宿に着いている。
 大塚家には天明8年の6月22日から26日まで滞在しているが、この頃には天明の飢饉があり、大塚家は救済のため蔵の米を放出したと伝えられる。したがって、『日記』中でも「米払底にて酒休み」という状況になっていたのであろう。大主人の亀石は江戸に出て留守であったが、能と乱舞を好むとされている。江漢をもてなした藤蔵と軍蔵の兄弟は大塚家の三男・珠水と四男の曲阜であろう。五男の荷渓はこの時十一歳であったが、残念ながら『日記』には登場していない。『日記』を見ると、江漢は珠水と曲阜の二人を文人と評価していて、ともに画を描くと記している。
 滞在中は大塚家にほど近い蓮華寺池の堤上で酒肴を催したりしながら、兄弟に請われて駿府から荷物をとりよせて、油絵を見せたり、描いたりして驚かせ、世界地図で地球の話しをして感心させたりしている。江漢は一旦は府中で長崎には行かないと決めたのに、大塚家でもてなされて気が変わり、餞別をもらって旅立っている。

 現在までのところ、大塚家の文人の草分けは亀石からとみられる。池大雅等らと交わったと伝える。池大雅はいうまでもなく南画の大成者である。亀石、荷渓、翠崖の3代が大塚家文人の中心である。

「大塚荷渓と藤枝宿の文人たち 椿原靖弘 」より抜粋
大塚荷渓は居宅を「香遠山坊」と呼んでいた。この額は大塚家に掲げられていたもので、伊勢長島藩主の増山正賢書によるもの。   壬申 文化9年(1812)
梅に鳥図      荷渓画 梅花書屋図    荷渓画
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