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■日蓮聖人京都遊学往復お立寄りの霊跡
750年前、日蓮聖人は京都比叡山遊学の折り当地を訪れ、茶店を営んでいた道円、妙円の両夫婦を説法教化されました。その後、夫婦は自宅裏に法華堂を建立して当山の基を開きました。(鎌倉時代、建長五年初春) 日蓮聖人は法華経帰依を慶び、御題目の本尊と毘沙門天王を授与され、記念に一本の松をお手植されました。この松は「久遠の松」と命名され庭前に今も見事な枝を張っています。 円妙山の山号は道円、妙円両夫婦の法号より頂き、法華経流布の大慶にちなんで寺号を大慶寺としました。藤枝市の中央、上伝馬商店街の中にある寺院です。 上の写真・・・正面が本堂で右側が客殿。 ■道円、妙円の墓 両夫婦のお墓は松の前にある石彫大宝塔の最下部に安置されています。 左の写真が道円、妙円の墓 ■久 遠 の 松・静岡県天然記念物 山門を入ると、日蓮聖人お手植え「久遠の松」の大樹が出迎えてくれます。 樹高25m、板張り27m、根回り7m。静岡県指定の天然記念物で大慶寺のシンボルです。七百余年の風雨に耐え、寺の歴史を見守って来た生証人です。 ・日本の名松100選 この松は日本の名松100選にも選ばれています。静岡県からは大慶寺の久遠の松、三保の松原、沼津の千本松原が選ばれていますが、1本の松だけで選ばれたのは久遠の松だけです。 ![]() |
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![]() 田中城主・藩士の墓 ![]() 大塚亀石、荷渓、翆崖家の墓 |
■江戸時代の大慶寺 江戸時代、当地は城下町・宿場町として栄えました。田中城主は寛永10年(1633年)以降順次任命され、明治元年まで12氏21人の城主が在城しました。この中で当寺と最も関係深かったのは10代、11代と城主をつとめた太田攝津守資直、資晴父子です。資直公は太田道濯の子孫で、浜松城主から田中城主となって五萬石を領しました。宝永2年(1705年)1月2日資直公逝去の際には当寺へ納牌、菩提寺とされました。資直の子、資晴は後、奥州棚倉へ転封され、その子孫が後に掛川城に移り、明治元年まで城主を務めました。田中城最後の城主本田氏の頃には家老、藩士の大半が当寺の檀家でしたので、いつの間にか「さむらい寺」と呼ばれるようになりました。 天和3年(1683)12世日淳代と、宝永5年(1708)日融代に2回の火災に遭い、貴重な寺宝等を焼失しました。しかし、その都度檀信徒の力を得て堂字を再建してきました。幸いにもその間久遠の松は火災に遭っても焼けずに残されました。 当時大慶寺には東海道を上下した旅人や文人墨客等が参詣しました。幕末には14代将軍徳川家茂が上伝馬の本陣に泊まった折、大慶寺に参詣し、病気平癒を祈願しました。また田中城の祈願寺ともなり、藩士や文人の尊崇を受けました。今でも境内に、田中城主太田資直、同本多正珍の側室、本多正供の姫君、学者では石井縄斎、熊沢惟輿、文人では大塚亀石、荷渓、翆崖等の墓碑があります。 |
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■相良城御殿(田沼意次公)移築の庫裡 一方、現在の大慶寺の客殿は、老中、田沼意次(相良城主)の御殿を移築したものです。(左上写真 客殿全景) 天明6年(1786年)、田沼意次が失脚したため相良城が解体されることになりました。その御殿があまりに立派なため、壊すのはもったいないと払い下げられました。当時のお金で700両。相良から藤枝の地に運び、再建されました。今なお太い柱や桁、見事な欄間の彫刻は黒光りを放っていて、豪壮な城郭御殿建築がそのまま残っています。(左中写真 玄関) 700余年の歴史には紆余曲折があります。例えば明治初年の頃、徳川慶喜公が駿府にやって来たのに合わせて藤枝の田中城主を今の千葉県の館山市にお国替えさせました。そのため、藩士も城主と共に館山市に移動しました。従って現在では藤枝に住む田中藩士の家系はほとんどありません。一晩で、檀家の殆どが館山市に行ってしまったわけですから、当時寺を維持するのに大苦労したと伝えられています。 寺に限らず、どんな世界でも山あり谷あり、その中のどこかに自分が存在するわけです。山の次は谷、谷の次は山が来ると考え、長い歴史の一こまを演じ、今があります。 (左下写真 客殿 床の間) |
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■新 客 殿 山口県防府市にある毛利元就邸を模したもので、入母屋、照り破風、真の床、逆勝手書院で、堅牢豪華な客殿です。廊下は無垢の欅に漆塗り、十二畳二間の部屋は、欅、桧、神代杉を使用し、組子入りの格天井本漆塗り、蟻壁の仕上げになっています。 |
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